開発の歩み

夢の紙―ユポ。
その開発の歩みをご紹介します。

ユポ・コーポレーションは、1969年5月に独創的な合成紙メーカーとして歩みを始めました。その後、合成紙産業の発展とともにトップメーカーとして成長を続け、培った独自の技術力をベースに、グローバルに事業を展開してまいりました。ここでは、限りない夢と可能性への挑戦によって生まれた夢の紙―合成紙ユポの開発の歩みをご紹介します。

合成紙誕生の背景―時代の要請から一大ブーム

木材資源の消費の増加による森林資源の枯渇と石油化学の勃興を背景に、 1968年5月、科学技術庁資源調査会が「合成紙産業育成に関する勧告」 を発表しました。そこでは天然紙の代替として安価な石油資源から製造する「合成紙」の重要性が提言されており、10年後の1978年には紙需要推定1,600万トンのうち、合成紙が約350万トンに上るだろうという大きな展望が示されていました。
その発表に先立つ1967年、三菱油化㈱(現・三菱ケミカル㈱)に素材研究室・合成紙グループが発足。既に技術導入の進んでいたポリプロピレンをベースとした合成紙開発を進めていました。

初期合成紙の開発風景

一方、以前よりスチレンペーパー等の研究を行っていた王子製紙㈱(現・王子ホールディングス㈱)は政府の勧告に刺激を受け、1968年9月に合成紙プロジェクトチームの第一回会議を開催。1970年秋の時点で合成紙の企業化を計画していたメーカーは推定20数社におよび、石油化学・紙パルプ、繊維など関連業界を巻き込んで一大ブームが到来していました。

わが国における紙需要と合成紙進出可能量推定
わが国における紙需要と合成紙進出可能量推定

合成紙のイノベーション―ミクロボイドの偉大な発見

当初、三菱油化・合成紙グループでは、紙状のポリプロピレンフィルムを得る手段として、ポリプロピレンに白色顔料と無機充填剤を混入し、白色度は白色顔料により、また筆記性と印刷性は無機充填剤でフィルム表面に凹凸を作ることによって得ようとしていました。

しかしながら、白色顔料で試作した場合、フィルムの比重が1.2程度と重く、筆記性にも難が生じ、「これが合成紙だ」という確信はどうしても得られませんでした。

ところが1968年。偶然、ポリプロピレンに白色顔料を入れずにフィルムを作ったところ「白色顔料なしで白いフィルム」ができました。調べてみると、フィルムの表面に小さな穴──ミクロボイドや亀裂が無数に生成しており、このミクロボイドが光を乱反射することで白さが得られていたことが分かりました。また表面に細かい亀裂があることから筆記性や印刷性も向上し、さらにはミクロボイドにより、比重も紙のように軽くなっていました(比重1.2から0.77に)。

こうしてミクロボイドを持ち、他の合成紙とはまったく異なる構造の合成紙が誕生したのです。そして当社合成紙第一号の基本特許が、科学技術庁資源調査会による勧告が通達される約2カ月前の1968年3月26日に出願されました。

ミクロボイドの形成がみられる表面

ふくろう部隊―合成紙開発に燃える若き集団

当時合成紙グループは自前の開発設備を保有していなかったため、フィルム研究室の設備を借りて実験していました。実験ができるのは他の研究室が作業を終える夕方4時ぐらいから。設備は実験を終えるときれいに掃除しなければなりません。少しでも合成紙の原料が残っていると透明フィルムの研究に支障をきたします。マシンをばらして丹念に拭き取り、それから山積みとなった試作品をリヤカーに載せて1km以上離れた倉庫まで運ばなければなりません。毎日のように真夜中になるとリヤカーが守衛室の前を通る……。いつしかその集団は“ふくろう部隊”と呼ばれるようになりました。「独自の構造を持った独自の合成紙を開発すべし」──平均年齢21歳、約10名の“ふくろう部隊”は、その後、鹿島1号機プラントへ移動するまでの4年間、寸暇を惜しんで合成紙誕生に向けて研究に従事したのです。

研究開発は深夜にも及んだ

製紙と石油化学のトップメーカーが提携・
合成紙事業がスタート

「現在の天然紙と、同等あるいはそれ以上に優れた経済性・品質を持った合成紙、大量生産の可能な成長性のある石油化学系合成紙を開発する」―1969年2月12日、それぞれで合成紙研究を進めていた王子製紙㈱と三菱油化㈱とで両社の意志を一つにする共同研究の合意に至り、1969年5月10日、㈱王子油化合成紙研究所(現・㈱ユポ・コーポレーション)が誕生しました。同社には、前述のミクロボイドをもちいた合成紙「FPペーパー」を担当する班を含め、計4つの開発班が設置され、幅広い紙の分野への進出を目指しました。

王子油化合成紙研究所・開所式の様子

1968~1969年には、合成紙「FPペーパー」の製造技術に関する基本特許を日本や欧米各国で出願。「夢の紙が王子油化で開発された」とメディアに取り上げられ、欧米約150社から問い合わせが殺到しました。研究所設立の翌年1970年には、工業生産を行うべく、王子油化合成紙㈱を設立し、1971年6月末、茨城県・鹿島臨海工業地帯にて生産能力6,000トン/年を有する第一号の合成紙プラントが完成。プラントの延伸工程は、2軸延伸ポリプロピレンフィルムをベースに設計されていましたが、当時のポリプロピレンフィルムが20~30ミクロンの厚さであったのに対し、合成紙は100ミクロン以上。この厚いものを安定的に延伸する設備改良に苦戦したものの、不眠不休の努力で生産可能なプラントの立ち上げに成功しました。

鹿島工場1号機・竣工披露会当日の様子

ブランド「ユポ」の命名・上市

1971年10月20日、FPペーパーの商品名として「ユポ」を発表。両親会社含めた従業員と家族から募集した3,000通ものの応募の中から、小松左京氏、星新一氏ほかの選考委員による審査の結果、のちに社名にもなる「ユポ」が選出されました(由来は、こちらをご覧ください)。12月には仮上市され、初の実需としてショッピングバッグとステッカー。 1972年1月の上市後は、地図や野菜の結束テープなどで採用が始まります。ユポの普及とともに、さらなる用途開発を進めるべく、半透明のユポなどを上市し、ラインナップを拡充すると同時に、合成紙の2次加工技術の共同開発などにも注力しました。

初期の見本帳

オイルショックにより量から質へ―180度 方向転換

海外製紙メーカーと提携し、米国への輸出が始まっていたさなか、青天の霹靂と呼ばれる大事件が起こります。1973年10月の第4次中東戦争の勃発を引き金とした第1次石油危機(オイルショック)です。この影響を受け、12月には主原料の価格が高騰。「安価な石油から天然紙の代替製品を作る」という前提は崩れ落ち、多くの合成紙メーカーが採算性の観点で撤退を余儀なくされました。 業界全体が厳しい中、当社は、規模こそスリム化するものの、ユポならではの優れた機能に可能性を見出し、事業継続を決定。販売方針を天然紙の代替から、天然紙ではできない高機能用途へ転換し、天然紙との大きな価格差を前提とした「合成樹脂フィルムと紙の特徴を兼ねそなえた優れた新素材」として再出発を行いました。

提携した海外製紙メーカーが鹿島に来場した様子

ユポの全面改良で品質向上

新しい方針のもとにユポならではの機能を活かした市場開発を行った結果、商業印刷、粘着紙、特殊紙、製袋・封筒、パッケージ、建材分野へと新用途の開拓を進め、 1978年頃には、ユポならではの需要が定着しつつありました。ここで、当社はさらなる定着と躍進を目指すべく、ユポの全面改良に着手します。これは、かねてより生じていたユポの「経年劣化」という問題への抜本的解決を目指したもので、実現には原料・製造プロセスの大きな変更を要しました。1度変更すると後戻りできないというリスクがあったものの、結果、耐候性や打ち抜き性などの点において大幅な品質向上に結びつきました。一部グレードから先行販売を開始し、1981年には全面切り替えを実施。現在のユポの基本ともなる、「ユポFPG」として上市しました。

この品質向上という強力な後押しもあり、同年1981年に初の黒字化を達成。既に創業から10年以上が経過していました。

海外でも採用事例が増加

毎日工業技術賞を受賞

1979年、「合成紙製造技術の開発と工業化」の成功に対し、多大な貢献を果たした功績が称えられ、当社非常勤取締役・大西光司氏(王子製紙副社長)と当社社長・髙島直一氏(三菱油化常務取締役)※が、第30回毎日工業技術賞を受賞しました。これはユポを開発し、合成紙という新しい市場を開拓してきた当社にとって、大いに喜ばしい出来事であり、その後の事業の展開への原動力となりました。

  • 髙島直一氏は、1991年「合成紙製造技術の開発育成」 にて藍綬褒章を受賞。
「毎日工業技術賞」受賞の記念撮影

ユポの展開

時代の要請から生まれたユポは、その後も時代や社会の変化に応じて、さまざまな製品開発・用途開発が行われ、誕生から現在にいたるまで独自の価値をグローバルに提供しています。私たちユポ・コーポレーションは、これまで培ったテクノロジーと創業から続く挑戦する精神で、素材から社会をより豊かにすべく、時代のニーズを先取りした製品開発・用途開拓にこれからも取り組んでまいります。

”ユポよ 永遠なれ”
鹿島工場内の石碑には、ユポの誕生から事業化、その後の発展に
いたるまで、約40年間にわたり貢献した「ユポの生みの親」こと
丹波繁元会長のメッセージが寄せられている。
もっと詳しく知りたい方はこちら